日本100名城第40番 後北条氏と豊臣秀吉が激突した城で畝堀(うねぼり)・障子堀(しょうじぼり)の築城技術が見どころ!山中城(やまなかじょう)

水資源確保の努力が見える「溜池」

障子堀の次に見えてくるのは「溜池(ためいけ)」の跡です。
近くの山田川の支流を盛土で仕切り、人工土手を作って深い堀としました。
そこに本丸・北ノ丸の堀水と西ノ丸の排水が集まり溜池となりました。
山城では水の確保が重要で、田尻の池や溜池をみるととても努力して確保しているのがわかります。
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溜池からしばらく歩くと「北ノ丸跡」があります。
天守閣に次ぐ高さにあり、重要な拠点でした。
北ノ丸は堀を掘った土で平坦に整地し、まわりを土塁で囲んで守りを固めています。
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本丸と北ノ丸の往来には木製の「架橋(かけはし)」が利用されたと考えられています。
木製の架橋は土や石の橋に比べ破壊が容易の為、敵兵に攻め込まれた際は破壊し、堀を渡れなくして防御を固めました。
現在は木製の架橋が復元され、北ノ丸から本丸へ行くことが出来ます。
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最重要拠点の「本丸跡」「天守櫓跡」

こちらが「本丸跡」です。
標高578mの場所に位置し、城の中心となる曲輪です。
江戸時代の絵図によると、本丸広間は写真の藤棚の位置にあったと推測されます。
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こちらは「天守櫓跡(てんしゅやぐらあと)」です。
本丸と共に山中城の中心となる場所でした。
標高586mの場所に位置し、山中城で一番高い位置にあります。
基壇は一辺7.5mのほぼ正方形で盛土により50~70cmの高さに構築されました。
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推定樹齢500年「矢立ての杉」

天守櫓に接して推定樹齢500年、高さは31.5mの「矢立ての杉」があります。
名前の由来は出陣の際に杉に矢を射て勝敗を占ったところから名付けられたと『豆州志稿』の記述にあります。
樹齢500年ということは北条氏の全盛期もこの場所にあったと思われ、感慨深いものがあります。
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本丸から二ノ丸へ進むと「二ノ丸虎口(にのまるこぐち)と架橋(かけはし)」が見えてきます。
橋の下はかなり深い空堀となっており、敵の侵入時に架橋を破壊するとかなり防御を固められたと思います。
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広大な面積を誇る「西の丸」

架橋を渡って進むと「西の丸」があります。
広大な面積がある曲輪で、3,400㎡にもなります。
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山中城の曲輪はすべて土塁で囲まれており、城内の隠すもの(人・馬・槍等)を考えて作られています。
曲輪ごとの土塁の高さをみながらまわるのも興味深くておもしろいですよ♪
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西の丸の見張台は盛土を積み上げて作られています。
標高は約580mの場所にあり、城内を一望できる重要な拠点であったと考えられます。
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山城の重要な水資源「箱井戸」

見張台から二ノ丸へ向かい道を下ると「箱井土跡(はこいどあと)」があります。
近くに田尻の池があり、箱井土とは土塁で仕切られています。
湧水が出て一段高いところにある箱井土から田尻の池へ水が流すことにより、箱井土の水質を良好に保ち飲用水として用いたためと考えられています。
現在の箱井戸跡には睡蓮が植えられ、毎年7月~8月には一面花を咲かせます。
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箱井土跡から進むと「宗閑寺」というお寺があります。
こちらには山中城の戦いで亡くなった豊臣秀吉の側近で先鋒を務めた「一柳直末(ひとつやなぎなおすえ)」や、北条方で山中城主「松田康長(まつだやすなが)」、副将「間宮康俊(まみややすとし)」兄弟、群馬県の箕輪城主「多米長定(ためながさだ)」などの墓碑が並んでいます。
宗閑寺を過ぎるとスタート地点に戻ってきます。
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おわりに

山中城に訪れてみて畝堀障子堀は見ごたえがあり、北条流築城術を見ることができました。
山城ですが、道は整備されて歩きやすく、各遺構も復元や説明板によってわかりやすかったです。
かなり大きな山城で攻略するのが難しそうですが、豊臣軍の前に半日で落城したことから当時の豊臣軍の勢いも感じることが出来ました。
山中城跡はとても整備されており、当時の山城を知るうえで大変貴重でわかりやすい遺構ですので是非一度訪れてみてくださいね。

山中城跡
住所 静岡県三島市山中新田410-4
電話番号 055-985-2970
山中城跡案内所・売店
スタンプ
設置場所
山中城売店前
営業時間 山中城売店:午前10時~午後4時
(冬季は午前10時30分~午後3時30分)
定休日 月曜日・年末年始
料金 無料
駐車場 無料駐車場あり
午前9時~午後5時