2015年12月12日に北鎌倉にある亀ヶ谷坂切通(かめがやつざかきりどおし)を通ってきました。
亀ヶ谷坂切通は亀も引きかえすほどといわれる坂で、扇ガ谷側と山ノ内側をむすぶ切通(きりどおし)で、鎌倉七口のひとつです。
切通とは、山や丘などを切り開いて、人や馬の交通を行えるようにした道のことです。
鎌倉七口とは七切通ともよばれ、以下7つになります。
1 | 極楽寺坂切通 |
2 | 大仏切通 |
3 | 化粧坂切通 |
4 | 亀ヶ谷坂切通 |
5 | 巨袋呂坂切通 |
6 | 朝夷奈切通 |
7 | 名越切通 |
亀ヶ谷坂切通の見所は、切通の壁の状態が良好に残っているので当時の面影を見ることができることです。
亀ヶ谷坂切通へはJR北鎌倉駅から徒歩約15分で到着します。
亀ヶ谷坂切通をゆっくり歩いて所要時間は30分でした。
亀ヶ谷坂切通の概要
亀ヶ谷坂切通は扇ガ谷側と山ノ内側をむすぶ切通です。
亀ヶ谷坂切通の造られた正確な時期はわかっていませんが、13世紀中ごろには切通として整備されていたようです。
吾妻鏡によれは、鎌倉幕府が鎌倉市中の7箇所の商業区域の1つとして亀谷辻を指定しています。
亀ヶ谷坂切通は、建長寺や円覚寺のある山ノ内側と鎌倉市中を結ぶ亀ヶ谷坂は重要な場所でした。
江戸時代に鎌倉七口の1つに数えられるようになり、資料でも鎌倉七口の記述がみられます。
現在でも亀ヶ谷坂切通は生活道路として利用されています。
JR北鎌倉駅から亀ヶ谷坂切通に入った開始地点ところです。
近くには建長寺や長寿寺があります。
紅葉が見ごろをむかえていて、とても美しかったです。
亀ヶ谷坂切通からは長寿寺の庭園が見えます。
足利尊氏の遺髪を埋葬したお墓があり、庭園がとても美しいお寺です。
長寿寺の拝観は季節限定、週末限定ですので、事前に調べて行く事をおすすめします。
道路はコンクリートで舗装されており、現在でも日常生活で使用されていることがわかります。
一般車両は進入禁止ですので、ゆっくり散策できるのが嬉しいです。
けっこう急な坂です。
山や丘などを切り開いた雰囲気がつたわってきます。
当時は山を切り開いて、舗装もされていなかったので、落石などで悪路だったのではないかと思われます。
切り通しの一番高い地点あたりには六地蔵がいます。
切り立つ崖の中に六地蔵がいて、鎌倉らしい風景だなぁと思いました。
ここからくだりになります。
右側の岩が切り崩して道を造ったのがよくわかりました。
舗装されるまではこのような切り崩したままの岩の中を通っていたのだと想像しながら散策しました。
こちらの写真が私の中では一番、当時の亀ヶ谷坂切通の風景に近いのではないかと思っています。
岩肌がむき出しになっており、山を切り開いたことがよくわかります。
延壽堂地蔵尊道と書かれた石標とお地蔵様がいました。
かつて延寿堂には鉱泉があり、建長寺の僧侶が高齢になったり、病気になったときの隠居場だったそうです。
延寿堂は左の道の先にありますが、一般進入不可となっていました。
坂をくだる途中、特徴的な石の門がありました。
昔、香風園という旅館があり、川端康成が千羽鶴を執筆したといわれています。
現在は旅館はなく、マンションがたっています。
亀ヶ谷坂切通終了地点にある、海蔵寺の岩船地蔵堂(いわふねじぞうどう)です。
こちらのお堂は平成13年に建て直された比較的新しいお堂です。
源頼朝の娘、大姫を供養する地蔵堂です。
大姫とは長女という意味です。
源頼朝の人質となっていた木曽義仲の子・義高に大姫が恋しましたが、木曾義仲は父・頼朝に討たれてしまいます。人質であった木曾義高もその為殺されました。
大姫は、大変ショックを受けて深い悲しみを受けたそうです。
母・北条政子の必死の努力にもかかわらず、深い悲しみのまま20歳でこの世を去ってしまいました。
哀れな死をいたむ北条、三浦、梶原など多くの人々が、この谷に野辺の送りしたそうです。
たらればになりますが、当時の慣わしとはいえ、木曾義高が存命し、大姫と幸せに暮らしてほしかったですね。。
こちらでは木造の地蔵尊が祀られており、見ることができます。
亀ヶ谷坂切通を散策してみて、道路はコンクリートで舗装されて歩きやすかったです。
傾斜がきつい坂や、岩肌がむきだしの当時の切通を想像されるところがあり、雰囲気を十分堪能できました。
亀ヶ谷坂切通沿いには、長寿寺、海蔵寺の岩船地蔵堂、川端康成が千羽鶴を執筆したといわれる場所があり、見所がいっぱいでした。
建長寺の近くにありますので、北鎌倉観光の際は立ち寄ってみてはいかがでしょうか♪
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