2017年11月11日(土)に神奈川県鎌倉市扇ガ谷(おうぎがやつ)にある「浄光明寺(じょうこうみょうじ)」にいってきました。
浄光明寺は、2015年5月9日にブラタモリで放送されたお寺で、約700年以上前につくられた鎌倉屈指の「網引地蔵」が詳しく紹介されていました。
浄光明寺は何度か参拝したことがありますが、拝観日が限定されており、網引地蔵に中々参拝することが出来ませんでしたが、今回参拝できましたのでご紹介いたします。
浄光明寺の所要時間ですが、ゆっくり参拝した場合で約1時間でした。
浄光明寺の概要・歴史
浄光明寺の創建は、慶長3年(1251年)に開山は「真阿和尚(しんあおしょう)」、開基は鎌倉幕府第5代執権「北条時頼(ほうじょうときより)」と6代執権「北条長時(ほうじょうながとき)」です。
山号は「泉谷山(せんこくざん)」で宗派は「真言宗泉涌寺派(しんごんしゅうせんにゅうじは)」になります。
鎌倉時代には鎌倉幕府の北条氏から庇護を受け、100人もの僧がいたと伝わる大寺院でした。
「足利尊氏(あしかがたかうじ)」からも寺領の寄進や厚い庇護を受けており、足利尊氏は建武2年(1335年)に後醍醐天皇から謀反の疑いをかけられ、戦いを決断するまでの間、浄光明寺に蟄居(ちっきょ)していたと伝わります。
尊氏の弟「足利直義(あしかがただよし)」からの信仰も厚く、仏舎利や寺領の寄進を受けました。
鎌倉幕府滅亡後の室町時代には、鎌倉時代から継続して足利尊氏や足利直義から関東各地の多くの寺領の寄進や庇護を受け最盛期を迎えました。
しかしその後寺勢は衰え、江戸時代には伽藍は荒廃し、本堂も失われました。
その後、住僧の勧進や鶴岡八幡宮寺相承院元喬僧都の援助を得て、寛文8年(1668年)を得て仏殿を再興し法灯が保たれ、現在に至っています。
浄光明寺の見どころ
1.もとは英勝寺の総門だった「浄光明寺山門」
2.寛文8年(1668年)に旧材を用いて再興された「浄光明寺阿弥陀堂」と樹齢750年になるイヌマキの大木
3.中世の鎌倉のみで流行した装飾技法「土紋」が見られる重要文化財「阿弥陀如来」および「観世音菩薩・勢至菩薩」
4.足利直義の為に矢を拾った逸話が伝わり矢拾地蔵とも呼ばれる「地蔵菩薩立像」
5.漁師の網にかかり海から引き揚げられたことから網引地蔵とも呼ばれる「地蔵菩薩坐像」
6.鎌倉時代末から南北朝時代初めの型式が見られる「冷泉為相(れいぜんためすけ)」の宝篋印塔
浄光明寺へのアクセス
電車でアクセス
・JR横須賀線「鎌倉駅」から約1,000メートル・徒歩約13分
浄光明寺参拝
浄光明寺へは鎌倉駅から徒歩約13分で到着します。
住宅街の奥まった場所に山門があり、入口には「泉谷山 浄光明寺」の石碑があります。
こちらの道をまっすぐ進み境内へ進みます。
もとは英勝寺の総門だった山門
境内へはこちらの市指定文化財の山門をくぐって進みます。
もとは徒歩4分・350メートル程のところにある「英勝寺」の総門でした。
英勝寺が創建された寛永年間のもので一時期民間人の手に渡り、大正15年(1926年)に浄光明寺に寄進されました。
中世寺院の敷地が保存されている境内
こちらは「浄光明寺敷地絵図」で、鎌倉幕府が滅んだ1333年~1335年頃の敷地絵図です。
2000年に鎌倉市内の旧家で見つかった資料で、中世鎌倉時代を知ることができる大変貴重な資料で国の重要文化財にも指定されています。
こちらの絵図によって浄光明寺の境内は中世寺院の敷地が保存されていることが確認され、境内地全体が史跡に指定されました。
Halohalo onlineより引用
境内は広く正面の大きな建物が「客殿」で、参道をまっすぐ進むと「仏殿」、右に進むと「不動堂」があります。
こちらが不動堂で、江戸時代の1745年に建てられました。
建物内部には不動明王像が祀られており、毎年除夜の鐘の最中のみ公開されています。
拝観可能日時は指定されいるので注意が必要!
山門からまっすぐすすみ、突き当りの旧階段は登れませんので右の参道から仏殿へと向かいます。
仏殿から先には見どころの重要文化財が納められている収蔵庫や網引地蔵等がありますが、拝観日は限定されていますので注意が必要です。
拝観日時は「木、土、日曜日、祝日」の午前10時~正午までと午後1時~午後4時までで、拝観料は大人200円となっています。
雨天多湿の日も拝観は中止となりますのでご注意下さい。
参道横におられる「虚空蔵菩薩」に参拝して先へ進みます。
仏殿と樹齢750年のイヌマキの大木
正面に見える木造の建物が「仏殿」でかつて本尊阿弥陀三尊像を安置していたことから「浄光明寺阿弥陀堂」とも呼ばれます。
寛文8年(1668年)に再建された建築物で、仏殿内には三世仏や応仁2年(1468年)名の須弥壇があります。
写真の大木はイヌマキの大木で、創建時に植えられたと伝わり、樹齢は750年になります。
左の建物が重要文化財が納められている「収蔵庫」になります。
収蔵庫近くに受付がありますのでそちらで先に受付を済ませます。
浄光明寺は京都東山の泉涌寺の末寺として準別格本山の寺格があたえられており、泉涌寺は皇室との関連が深く「御寺(みてら)」とも呼ばれています。
その為仏殿には天皇の御紋である「菊花紋章」が見られます。
収蔵庫では重要な文化財の説明をしていただける
収蔵庫前で浄光明寺の方が丁寧に解説してくれます。
資料や実物を利用したとてもわかりやすい説明で理解が深まります!
収蔵庫には、中世の鎌倉のみで流行した装飾技法「土紋」が見られる重要文化財「阿弥陀如来」や、その両脇には「観世音菩薩・勢至菩薩」がおられます。
足利直義の為に矢を拾った逸話が残り、矢拾地蔵とも呼ばれる「地蔵菩薩立像」もこちらにおられます。
浄光明寺は鎌倉三十三観音霊場のひとつに数えられており、収蔵庫横には「観音堂」があります。
写真左が仏殿、中央が拝観受所、右奥が収蔵庫、右手前が観音堂になります。
こちらの道を進んで山の上にある網引地蔵や冷泉為相墓へと進みます。
山上へ上る道は注意が必要!
仏様の横の細い道を通って先に進みます。
とてもすべりやすく、特に降りが危険です。
足腰に不安がある方はこちらから先は控えたほうがよいとの注意看板もありますので、進まれる方は歩きやすい靴で注意してすすみましょう。
途中手すりもありますが、けわしい山道ですので注意しましょう。
奥の冷泉為相墓まで片道約10分程度の山道になります。
鎌倉石を掘ったやぐら
しばらく歩くと網引地蔵がおられるやぐらが見えてきます。
やぐらとは比較的柔らかく加工しやすい鎌倉石を掘って作ったものをそのように呼びます。
ブラタモリではタモリさんもこちらを見学されていました。
鎌倉屈指の石仏「網引地蔵」
やぐらの中には鎌倉屈指の石仏で700年以上の歴史がある網引地蔵がおられます。
柔和な顔をされており、正和2年(1313年)に供養され、冷泉為相によって造立されたとも伝わります。
ブラタモリでもタモリさんが網引地蔵の近くで熱心に見学されていました。
網引地蔵近くに石段があり、そちらを登ると冷泉為相墓が見えてきます。
冷泉為相の墓塔は宝篋印塔
『十六夜日記』の作者「阿仏尼」の子供で嘉暦3年(1328年)に亡くなった冷泉為相のお墓です。
冷泉為相は浄光明寺の西北の谷である藤ヶ谷に住み鎌倉歌壇の指導者として活躍したと記録に残っています。
お墓は宝篋印塔で、鎌倉時代末期から南北朝時代初頭の型式が見られます。
冷泉為相からは鎌倉の町や海を見渡すことができます。
鎌倉時代には町に10万人の人々が暮らしていたと伝わります。
おわりに
浄光明寺は鎌倉幕府の終焉を見守り、室町幕府をつくった足利尊氏の決起の舞台となったお寺で、境内は中世寺院の型式が保存されており、境内全域が史跡に指定されています。
鎌倉石を掘ってつくられたやぐらや、鎌倉屈指の歴史をほこる網引地蔵も見学出来て鎌倉の歴史を知る上で大変貴重な史跡でした。
拝観日時は限定されていますので、拝観日時に注意して是非一度参拝してみてはいかがでしょうか。
浄光明寺(じょうこうみょうじ) | |
住所 | 神奈川県鎌倉市扇ガ谷2-12-1 |
電話番号 | 0467-22-1359 |
アクセス | JR横須賀線「鎌倉駅」から約1,000メートル・徒歩約13分 |
定休日 | ・月~水、金 ・雨天多湿は拝観中止 |
拝観時間 | ・午前10時~正午まで ・午後1時~午後4時まで |
拝観料金 | 大人:200円 |